2025.06.30
“10%未満の部分”を追い求めて

「近藤 智裕|香りで情景を紡ぐ感性を調香師」
— 人間にしか作れない感情を持った香りを作る調香師。
— 構想した製品は1000種類以上。 創香し続けて27年、老舗香料メーカーのシニアパフューマ—。
―「いい香り」とは、どんなものだと思いますか?
「『いい香り』って、人によって全く違うものなのです。その人の記憶や生活のリズム、そして内面の動きによって、香りの好みは変わっていきます。 そうですね、『ふとその香りが好きだと思ったのか』まで教えてもらって、とても嬉しいですね。」
―香りの感じ方が変わることもありますか?
「そうです。香りの感じ方は、経験や環境によって絶えず変化していきます。昨日は心地よく感じた香りが、今日は重たく感じることもあります。逆に、前は気も留めなかった匂いが、突然好きになることもあります。」
―ありそうですか。香りって無意識のうちに人の生活に寄り添っているんですね。
だから、香りを嗅ぐと思い出みたいなことが起こったりするんですね。
「その通りです。その人がどんな日々を過ごし、どんな感情を抱いてきたのか。香りがあるのは、そばに寄り添うように存在しているからこそ想起させる力があるのです。」
―現代は香りの世界にもAIの技術が近づいていると思うのですが、それについてはどう思いますか?
「確かに、香料の組成や濃度、拡散性、残香性など、数値で覚えることができる情報は年々増えています。 現時点では機器分析によって、香りの90~95%は解析が可能と考えていますが、私が一番大切にしたいのは、数値化できない部分なんです。10 %未満の部分こそ記憶を刺激する香りの本質だと思います。機械学習しかできないAIには一時的に真似できない領域だと考えています。」
―「10%未満」の部分とは、具体的にはどのようなものですか?
「なんだか、森の中を歩いているときにふと感じる、雨上がりの木々の香りや、枯葉を踏みしめたときのかすかな音。そして、風が運んでくる遠くの焚き火の煙のにおい。それらは「成分」として細かく分解することは難しいですが、確かに心に深く響きます。その10%未満にこそ、「自然の記憶」や「感情の残り韻」が隠れていると思っています。
だから、その10%未満を完成させるために嗅覚だけでなく他の四感覚で感じた体験を香りとして表現します。それが、他にはない私の香りづくりの方法です。」
―香りを「つくる」というより、感覚に潜り込んでいるようですね。
「香りは、残りの四感も密に接してます。触覚、視覚、聴覚──それらに香りが混ざると、感情の輪郭がどうしても上がってきます。まるで空間に香りを添えるとき、僕が見るのは家具の配置や壁の色だけではありません。そこにいる人の表情や声のトーン、会話のリズム、その場に流れる“無言の空気”を感じながら、香りを重ねていきます。」
―言葉にならない感覚を香りとして表現することについては?
「とりあえず言葉にならなくても、『何かを感じた』とき、その感覚を香りとしてそっと渡せたらいいと思います。」
―最後に、香りが持つ力について教えてください。
「日が暮れかけた帰り道、ふと風に乗って漂ってくる懐かしい匂い。なんとなく、心が思いがけず緩む瞬間がありますよね。香りは主張しません。でも、確かにそこにはあります。そしてそのささやかさの中に、誰かの記憶や感情が息づいている。そんな存在だと思います。」
編集後記

近藤智裕(こんどう・ともひろ)
調香師/塩野香料株式会社 シニアパフューマー 1973年生まれ、新潟県出身。香水・化粧品・トイレタリー製品をはじめ、これまでに1,000種類以上の香りを手がける。
塩野香料株式会社ではシニアパフューマーとして活躍。感性と科学を融合させた香りづくりにより、多くのヒット製品を生み出している。
また、香りの奥深さを次世代へ伝えるべく、新潟大学にて非常勤講師として「香粧品化学」の講義も担当。
香りを通じて、「人の感情に寄り添うものづくり」に挑み続けている。